2011年4月12日、宇宙飛行士の野口聡一は、モスクワのクレムリン宮殿(大統領府)にいた。1961年に旧ソ連の宇宙飛行士、ユーリー・ガガーリンが宇宙船ボストーク1号で人類初の有人宇宙飛行を成功させてから50年となるその日、有人宇宙開発に貢献した外国人飛行士63人に「宇宙開発の功績をたたえる」メダルの授賞式典が行われたのだ。
「ガガーリン大佐が地球を1周してから、現在では人が恒常的に宇宙に住むというところまで来たわけですよ。実際に、今も6人が宇宙ステーションに住んでいます。こうした目覚ましい進歩に、半世紀前から宇宙事業に携わってきた方たちの感慨は、それは大きなものでした」
4月のモスクワの式典以降、6月のウィーン、12月のシンガポールと、野口は次々と記念式典に出席。そこで、ガガーリンの有人飛行打ち上げに立ち合った技術スタッフや月探査を敢行したアポロ計画の関係者、NASAのスペースシャトルや宇宙ステーションの構想時代に携わった宇宙飛行士らと出会った。
彼らは、野口を喜びの表情で迎えた。それは、宇宙開発の黎明期(れいめいき)を過ごした彼らにとって、米ロが手を結んだ宇宙開発の一員である野口が、新時代の象徴であったからだ。
野口は、2005年7月、米国のスペースシャトル「ディスカバリー号」に乗りこみ、日本人宇宙飛行士として初めて国際宇宙ステーション(ISS)で船外活動を行った。
「3回の船外活動では、スペースシャトルの耐熱タイルの修理試験や、宇宙ステーションの姿勢を制御する装置の交換や部品の組み立てを担当しました」
09年12月には、日本人初のフライトエンジニアとして、ロシアのソユーズ宇宙船に搭乗し、ISSでは長期滞在クルーとして約5カ月半滞在。
「きぼう」と名付けられた日本実験棟のロボットアームに子アームを取り付けたり、数々の実験を行ったりした。その姿は、宇宙からの中継映像によって世界各国へリアルタイムで伝えられている。
「大先輩たちが、当時の思い出や苦労話を笑顔で話してくださいました。誰もが隔世の感を抱きながら、今の状況を心から喜んでいた。50年前といえば、アメリカとソ連とが対立し、宇宙事業者たちは、背中に国旗を背負い、西側社会と東側社会のプライドをかけ、戦っていたんですから」
いまや宇宙でもアジア人に存在感
1975年に米国のアポロ宇宙船と旧ソ連のソユーズ宇宙船がドッキングし、表向きは協調がうたわれるようになったが、実際にはまだ冷戦のまっただ中だった。
「84年、国際宇宙ステーションの建設計画が発表され、当時、アメリカのレーガン大統領が、宇宙で人間が生活できる宇宙基地を造ることを目指すとし、この計画を国際協力のもとで進める、と明言しました」
この米国の呼びかけで、85年にはヨーロッパの国々が参加を決定。続いてカナダと日本が参加を決めたが、東西対立の構図は終わらない。スパイ合戦ともいうべき情報戦は続いた。
「宇宙計画のベースにあるのは常に国家戦略と武装だった。ところが、89年、冷戦が終焉(しゅうえん)を迎えると、宇宙開発に携わる技術者たちには、明確な共通のビジョンが誕生します」
宇宙に何度も人を送り、宇宙ステーションを建設し、人が住める空間をつくる。そのために、93年にはロシアが参加を決定し、98年には国際宇宙ステーション建設が開始された。敵対していた米ロが先頭に立って、日本、欧州共にこのビジョンを共有していくことになる。
中国は軍事利用を視野に入れ、独自に宇宙開発を進めている。その一方で、ISSは現在15カ国が参加する地球規模の巨大なプロジェクトとなり、中でもアジア勢は宇宙飛行士だけでも20人を数え、存在感を増している。
「冷戦時代に国家威信をかけて始められた宇宙へのチャレンジが、時代を経て、現在は極東の小さな国に生まれた私が、ソユーズの操縦資格を取り、宇宙ステーションで船外活動をしている。冷戦時、米ソがスパイ合戦で奪い合っていた情報は、今やISSチームのものとなり、アメリカ人でもロシア人でもない日本人の私が国際社会に向け、堂々と発信できる。
50年前、私のような存在は想像もできなかったでしょう。宇宙開発の先達は『時代は変わった、良い時代になった』と、私の肩を何度も抱いてくれました。私自身、自分はとても幸福な時代に生まれたのだ、と感謝していました」
地球のために宇宙からできることはないか
世界が手を携える宇宙事業。それを改めて実感する出来事があった。それは、昨年3月11日の東日本大震災である。
「震災のとき、ISSに日本人はいなかったのですが、イタリア人とアメリカ人とロシア人が滞在していて、彼らからすぐに連絡がありました。震災で亡くなった方へのお悔やみと、『何かできることはないか』というメッセージです。まずは、救助・復興のための情報に役立ててほしいと、被災状況を宇宙から撮影した画像を送ってくれました。さらには、ISSにいた宇宙飛行士たちが、一生懸命に折り紙で鶴を折ってステーション内に飾り、祈りを捧(ささ)げてくれていたんですよ」
野口にも同じ経験があった。
「私がISSにいた時には、チリやハイチで地震があり、彼らと同じように『宇宙にいる自分に何かできることはないか』という気持ちになりました。そこには利害や争いの心は皆無です。地球に住む人のためにできることはないか、という思いがあるだけでした」
旧ソ連とアメリカが冷戦時代に国策として行ってきた宇宙開発が、今では、最も洗練された国際協調を体現する場となっている。だからこそ、野口が抱く使命感も大きい。日本だから、そして日本人だからできる任務、事業があると思っている。
それを遂行するステージが、日本の技術を結集した実験棟「きぼう」だ。日本が開発し、築いた実験モジュールは、宇宙飛行士が長期間活動できる日本では初めての有人施設で、最大4人まで搭乗できる。
「ISS滞在時に、小型ロボットアームの組み立てから始まって、正常に動かすところまで行いました。さらに重要なミッションだったのは、日本との通信回線の確立です」
それまではヒューストンかモスクワ経由でしかできなかった通信が、茨城県つくば市のJAXA(宇宙航空研究開発機構)の管制センターへ直接できるようになった。
「2010年の端午の節句でしたが、つくばの管制センターに子供たちを招待し、『きぼう』にいる私と直接交信したんです。そういうことができる時代になったというのがうれしかったですね」
打ち上げから8年、野口が完成させた「きぼう」には、各国からは羨望のまなざしが向けられた。
「ISSに約半年いましたが快適でした。半年に限らず、1年でも2年でも宇宙空間、無重力の世界にいることができるようになったと実感しています。そして『きぼう』での実験は、未来の人類のためのものです。静かで快適、照明も明るく、送る映像もクリアなので、他の国のクルーたちが頻繁に利用しているんですよ」
野口をはじめ8人の日本人宇宙飛行士には、「きぼう」での次なるミッションが待っている。
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【プロフィル】野口聡一
のぐち・そういち 宇宙飛行士。1965年4月15日、横浜市出身。東京大大学院を修了後、石川島播磨重工(現IHI)に入社。96年5月、旧宇宙開発事業団(現宇宙航空研究開発機構=JAXA)の募集に応募し、宇宙飛行士候補者に選定される。2005年7月、米国のスペースシャトルで15日間、宇宙に滞在。09年12月には、ロシアのソユーズで再び宇宙へ赴き、約5カ月半の長期滞在を果たす。
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