中国の唐時代の高僧・趙州禅師が就業中の頃、師匠・南泉和尚に、「如何なるか是道」と、仏道とはいかなるものなのでしょうか、と尋ねました。
それに対し、南泉和尚は、「平常心是道」と答えました。平常心、すなわち日常の行住坐臥(行き来・寝起き)がそのまま道だ、と言うのです。
問答は続きます「その道は、どのように歩いたらよいのでしょうか?」「歩こうとするから、道からはずれるのだ。」修行しようとするその思いが修行を妨げると言うのです。
趙州は「しかし、歩こうとしなければ、どうして道を歩けるのですか。」とさらに問いかけます。
南泉和尚は答えます。「道は、お前が歩こうと思ったり思わなかったりで、あったりなかったりするものではない。また、知識があれば道がわかるというものでもない。知識は、物事を相対的に考えるために、往々にして謝る。しかし、知識がなければ、これもまた何もわからない。知っているとか知らないとか、そういう次元ではない、つまり無心の行住坐臥に徹すれば、自ずと体得できるのが道である。」難しい学問や難行苦行が必要なのではなく、ごく普通の日常の行いを無心にしていくところに、真実の道は潜んでいるのだそうです。
株式投資道も無心に平常心是道で運用していけばいいのでしょうか?
私などにはよく分かりません。