須菩提は舎利弗長老に次のように言った。
シャーリプトラ長老よ、私が菩薩大士に行い難い修行をするように期待しているのではありません。また、自ら苦行だと思いながら追及するようなものは菩薩大士ではないのです。それはなぜかといううと、シャーリプトラ長老よ、苦行だという思いを生じたならば、無量、無数の有情たちの利益をはかることなどできないからです。むしろ楽しいという思いを生じてこそそれはできることなのです。すべて有情について、女や男を、母と思い。父と思い、息子と思い、娘と思ってこそできることなのです。このように。菩薩大士はそれらの思いをもって菩薩の修行を追求するのです。ですから、菩薩大士は全ての有情にについて、母の思い、父の思い、息子の思い、娘の思いを生じ、さらに「ちょうど自分というものは、あらゆる方法であらゆるばあいに、すべての苦しみから解き放たれねばならないように、すべての有情も、あらゆる方法であらゆるばあいに、すべての苦しみから解き放たれねばならない」と考えて、有情は自分自身なのだ、という思いを生じなければなりません。また、すべての有情のことを次のように考えなければなりなせん。「私はこれらすべての有情を捨ててはならない。私はこれらすべての有情を無量の苦しみの集まりから解き放たねばならない。また、私は百回まで切り刻まれても、彼らに対して悪心をいだいてはならない」と。実に菩薩大士はこのような心を生じなければならないのです。もし、菩薩大士の心がこのような状態にあるならば、彼は行い難いという思いをもって行わず、行い難いという思いをもって暮らさないでしょう。
*原始仏教においても、釈迦牟尼のその弟子たちの精神には大乗の菩薩のそれに通ずるものが多いのです。
